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⑤自律神経失調症 肝臓病 不登校 『波乱だらけの高校受験』

⑤自律神経失調症 肝臓病 不登校 『波乱だらけの高校受験』

母が肝臓病で倒れた。

僕の家庭は母子感染でB型肝炎が家族中に蔓延している。


B型肝炎というのは、元々は医療機関が注射器を昔は使いまわしていて、B型肝炎ウィルスを持った人の血液が他の人の身体の中に入ることによってどんどん広がっていった。現在でも、全国でB型肝炎訴訟が行われているような状態だ。


病気の症状が現れないまま、寿命で亡くなる方も少なくないが、母は仕事で無理をしすぎていたのもあったのだろう。それが悪化してしまった。


僕の家庭は母子家庭だ。父は地元では有名な地主の家系だ。

その「金」の力を使って敏腕弁護士に仕事を委託し、養育費・財産分与やらを値切りに値切りまくって本当に最低限の養育費しか入れないような人だ。ちなみに、僕が2歳の頃に離婚しているので僕は顔も知らない。

僕には9歳離れた兄がいる。その為、母も同級生のお母さんの中では高齢なほうだ。

現在では当たり前のように行われている離婚。


母の時代の離婚は珍しく、女性が働く環境も整っていなかった。その為、僕たちは1年間ほど父方の祖父母の家に預けられ、離婚調停が終わるまでは普通に生活はできていたが、母はその頃から、やりたくもなかった水商売などでなんとか生活をしていた。


「地元では有名な地主」

と言えば聞こえはいいが、いわゆる「部落」という地域で田畑としての土地を沢山受け継いできたから土地を多く持っているだけだ。「部落差別」は今はだいぶ少なくなってきたけど、やっぱり部落の人間は、みんながみんなじゃないけれど、ヤクザみたいな人もいる。

父型の親戚にもそういう人がいて、そういう人間も使って母を無理やり追い出した。


1年後に母が親権を獲得し(父は子供嫌いだからね。)僕たち兄弟を育てる為に、保険屋で働くようになり、生活費が足りない時にはスナックでアルバイトという、朝から晩まで働き詰めで生活をしてきた。


B型肝炎は生まれつき備わっている病気だから、そんな病気を抱えた人はそんな無理、お酒を飲むような仕事が身体にいいはずがない。

でも、「部落」という地域で結婚生活をおくって、

「こんなところで子供を学習させたくない。」

という思いがかなり強かったらしい。


そういった理由から、無理をして地元で一番治安のいい、どこかの会社の社長や医者が多く住んでいる、地元で一番頭のいい公立の小学校・中学校に通える地域に引っ越してくれた。

その無理がたたって、とうとう倒れてしまったのだ。


(この頃、会社でも母は上手くいっていなかったと後日談で最近聞いた。保険屋は半自営業。数字が取れないと給料はないし、色々とブラックな世界で精神的にも限界だったと。今は少なくなってきたらしいけど、「作り保険」といって、数字の取れない人は自分で架空の契約を作って数字を水増ししていた。当然、保険料は自分が払うから、形だけの数字だ。長い目で見ると損をする。そうやって借金を抱えて辞めていく人もいたらしい。)


中学校にて

中学生は思春期ということもあるだろうけれど、母の仕事はずいぶん前から上手く行っていなかったらしい。上手く行っている時は年収1000万円なんて軽く超えていたけれど、それがずっとは続かないのと、それだけストレスの多い仕事だ。


そのような生活をおくっていたから当然、母は昔からヒステリーが凄かった。そして、束縛も。

そんな母のことが僕は大嫌いだった。小中学生がそんな親の苦労も理解出来るはずもないしね。

その母が倒れた。嫌いな母でも、それはさすがに心配になった。


母は比較的すぐに退院できたが、会社でのストレスが原因で自律神経失調症状(ずっと目眩がして立てないような状態)になったり、精神的にずっと不安定で、僕に当たることも多かった。


そして、母は仕事を辞めた。

それ以外にも、学校では担任とも相性が合わず(というより学年全体から嫌われていた教師なんだけどね…。)偶然、クラスメイトとの揉め事が何件も重なって、クラスでも孤立したような状態だった。


そして、部活は夏休みには終了だ。僕は受験の為に早めに辞めさせてもらった。(本当は陸上部長距離は駅伝が冬にあるので冬までは部活なのだけれど。)

そして、僕は生まれて初めて不登校児になった。


不登校中

情緒不安定になっている母に、

「学校に行きたくない」

なんて言っても許して貰えないだろうと判断した僕は、ドアを閉める音だけをさせて家を出たように装って、部屋の押入れに隠れていた。母は、8時半には仕事に出るので、そのあと家で自由にゲームをしたり、本を読んでいた。


担任の教師は精神疾患を多分患っていたし僕のことも嫌っていたので、休んでも一切連絡をしてこなかった。こっちとしては好都合だけど、普通は学校にくるように家まで説得にくるよな。

母とも口を聞きたくなかったので、知り合いのゲーム屋に行ってマジック・ザ・ギャザリングというカードゲームで時間を潰していた。


でも、受験のことを忘れたわけじゃなかった。でも、精神状態がまともじゃないときは勉強する為の頭が働かない。

そして、不登校期間が続いたせいで学校の勉強にもついて行けなくなっていた。


高校にはいかないとマズイ、という気持ちはこの頃はまだあった。そこで、母に頭を下げて塾に行かせて貰えないかとお願いした。

そして、夏休みから塾に通うようになった。学校には相変わらず行っていないけれど。


塾にて

自分から塾に行かせてくれといったものの、1学期の間ずっと不登校だった人間が「進学塾」の勉強についていけるはずがなかった。


授業も分からなければ、宿題の内容も何一つ分からない。

「分からなければ質問してこい」

と言われても、「全部分かりません」と言うしかなかったし、それだと勉強をサボっていると思われてしまっていた。


そうやって、勉強がどんどん嫌いになり、本当に勉強をサボるようになっていった。

塾長が他の支店に行かなければいけない曜日を把握し、その日だけズル休みするようになっていた。

周りは小学生の頃から塾や、くもん式などに通っていて、中学でもしっかりと勉強し、部活をしながら塾にも通っているような連中ばかりだ。


「塾の合宿」

なんかにも真面目に参加をしている。

(塾の合宿は、3泊4日で、睡眠時間1日平均5時間で、トイレやご飯以外の時間は夜遅くまで勉強させられる、というもの。)


僕は、勉強にここまでするのは一種の宗教だと思っていた。

全ては僕の言い訳で、サボっていたことが一番の原因なんだけれど、そんな状況だから周りとの差はどんどん広がっていった。当然、塾でも孤立した状態だった。仲の悪い奴しか入塾していなかったのも一つの原因かな。

元々は人見知りなんかする性格じゃなかったのに、色々なことが重なって精神的にまいって、

「対人恐怖症」に、この頃は陥っていた。


元の性格も荒く、喧嘩も多かったので尚更、弱っている僕に足を引っ掛けたりなどの嫌がらせをする連中が塾にもいた。因果応報といえばそうなのかもしれない。

でも、それは塾長が間に入って止めてくれたけれどね。

そんな塾でのストレス・家庭でのストレス・学校でのストレスが重なり、


僕自身も、腎臓病のほうではなく肝臓病が悪化して、肝数値という肝臓の数値が正常ならば二桁を超えることは無いのに、僕は1000という数字を叩きだしていた。


「このままだと入院です。でも、今までが正常だったので少し自宅療養で様子を見ましょう。」

それに追随して、僕も母と同じ、

「自律神経失調症」

にかかってしまった。もうこの時点で受験は絶望的だ。

「高校には行かずに働くか。」

そんなことを自暴自棄になって考えるようになった。

そういう状況から、塾も学校も休み、自宅療養をすることになった。

さすがに、僕がここまで病気を抱えている間の母は優しかった。


自宅療養中

自宅療養のおかげで、肝数値はすぐに下がり、入院はせずに済んだ。

自律神経失調症も治まった。

精神的にも落ち着いてきて、高校受験のことをまたちゃんと考えるようになってきた。


この頃から、どこの高校に行きたいのか考えるようになっていた。そういえばまだ、行きたい学校を決めていなかったよな。でも、この頃はまだどこへ行きたいのか決めることが出来ずにいた。


でも、せっかく時間があるのだし、簡単なものから少しづつ勉強しよう。どこの高校へ行きたいと思っても大丈夫なように。

僕は、歴史の年号暗記の語呂合わせを覚えることから始めた。


国語の成績を上げるには本を読むしか方法はないよなと思い、ブックオフで本を買って読むようになった。独学での勉強方法が知りたかったので、勉強法に関する本を読むようになっていった。


そして、そこに書いていた勉強法の一つ、

「色々な問題集を手当たり次第にするな。分厚い問題集・参考書は使うな。薄い問題集を何度も解いて、隅から隅まで出来るようにしろ。あとは行きたい学校や試験の過去問をひたすらやれ。」

というのを参考にして、3年分の内容が薄くまとまった問題集を5教科分買って勉強を始めた。5教科が3年分、1冊にまとまってる問題集もあったけれど、内容が薄すぎるのと解説が雑だったので辞めておいた。


そうやって行動に移していくうちに、学校にもちゃんと行こう。そうしないと生活リズムが崩れるから。塾にも行こう。

そんな気持ちが湧いてきて、また元通りに学校に通うようになった。


学校にて

長い期間、学校に行っていないと、教室に入るのが不安になるものだ。どういった反応をされるのだろうか、とか色々と考えてしまう。


嫌がらせをされるんじゃないか。悪口を言われるんじゃないか。机の上に花瓶と花が一輪だけ置いていたりしてね。ははは……。


しかし、僕の通っていた学校の連中は僕が思っているよりも優しい奴らだった。

「身体大丈夫か?」

普段、あまり話したことのない奴らが僕に話しかけてきた。僕のことを嫌い、悪口を言っていた奴らも僕をのけものにしたりせずに、優しく接してくれた。


不登校になったことで、ストレスが溜まって荒れていたことをなんとなく察してくれたのかもしれない。まぁ、せっかく話しかけてくれているのに、相変わらず対人恐怖が抜けていなかった僕はあまり上手く話す事が出来なかったけれど。

担任の教師は相変わらず僕には関心無し。久々に登校しても声もかけてこなかった。


塾にて

学校が終わったあとは塾がある。塾に行くのにも不安があったけれど、塾は半分くらいはほかの学校の連中なので、学校ほどは気にはならなかった。

久々に塾に行くと、早速、塾長に呼び出された。


ずっと無断欠席をしていたこと、3年生にもなってカードゲームにハマっていたこと、家庭で母親と仲があまりよくないことなどを聞かれ、怒られもした。けれど、勉強に集中できない原因として、塾でも嫌がらせをしてくる奴らが数人いたこと。若い講師が、僕が質問に答えられないと知っていながらワザとに質問をしてきて、それが苦痛だということ。(恥ずかしい思いをみんなの前ですれば、やる気を出すと思っていたのかもしれないけれど、こういった場合、逆効果だ。)


そういったことにもしっかりと対応してくれた。短気な塾長だけれど、熱い先生。

おかげで、塾での勉強のやる気も出るようになってきていた。


塾長「勉強をするからには、行きたい学校をそろそろ決めておいたほうがいい。将来の夢なんかは無いのか?」

僕「特にないです。」 冷めた返事をした。


塾長「じゃあ、好きなことや興味のあることは?」

僕「マラソンやゲーム、歌を歌うこと、パソコン、ロボット、カードゲームなどですかね。」

実は、行きたい高校についての情報を、カードゲームをする為によく行っていたゲーム屋で自分なりにある程度仕入れていた。


カードゲーム屋には、高校生や大学生、大人のほうが圧倒的に多く、中学生はむしろ少数だった。そこのカードゲーム屋にはよく、

「工業高等専門学校」

いわゆる「高専」(5年制の高校で数学やコンピューター・機械関係の勉強が中心。卒業は短期大学卒扱いになる。就職率も高い。)という学校に通っている人がいて、色々な話をしてくれていた。


入るのに物凄く頭がいるし、学校の勉強も大変。だけど、私服で通っていいしバイトもしていい。ゲームも授業中でなければ、放課後などにしてもいい。(これを聞いたときは、そんな学校が世の中に存在するものなのかと、とても驚いた)ゲームの持ち込みも、もちろん大丈夫。


こういった話をしてくれていて、僕の好きなゲームやパソコン関連の専門的な勉強が出来る。

この頃から、僕は漠然とコンピュータープログラマーなどに興味が出ていた。


この頃は今よりもまだ人手不足だったプログラマー業界。パソコン自体がまだあまり普及していなかった時代だ。そんな時代でも、うちの母はパソコンを買い与えてくれて(当時はハードディスクが1.2ギガしかなくても15万円くらいした。機種はマッキントッシュ。macのことね。)、ロボットの工作キットも買ってくれていた。友達にも裕福な家庭が多かったので、親がプログラマーでパソコンが家に何台もあるような家もあった。


SOHOという言葉が出だしたのもこの頃からだ。スモールオフィス・ホームオフィスの略で、今でこそだいぶ一般的になりつつある「個人事業主」で、自宅を事務所代わりにして、自宅で仕事をするという生きて行き方だ。今で言う「ノマド」の先駆け的なものになるのかな。

プログラマーだと自宅で仕事をしている人も多い。


ゲームを作ってそれを有料販売して生活をしている人もいる。(今みたいに、スマホなどは当然ないしインターネット自体もあまり普及していなかった。その代わり、パソコン雑誌に無料体験版を掲載して、そこから有料販売に繋げるという販売スタイルだった。)


そんな話も聞いていた。そんなに自由な世界がこの世の中に存在するものなのか、と中学生ながらに感じていたものだ。


自分の母親が働きすぎで精神状態がおかしくなっていたのもある程度感づいていた僕は、漠然とこういったコンピューターの世界に憧れを抱くようになっていた。

その為にはどうすればいいか。簡単なことじゃないか。


『高専に行こう』

僕「塾長、僕、高専を受験しようと思います。」

僕は自分から行きたい高校を、反射的に答えていた。まだ具体的には聞かれてもいなかったのに。

塾長「そうか。確かに、お前の今言った好きなものが関係している学校だな。でもな、現実的な話をすると、お前は学校をずっと休んでいたし、内申点(通知表の点数)も3年時は低い。テストも物凄く難しい学校だけど、例えテストの点数がよくても他の面で厳しいと思うぞ。」

思った通りの答えだった。しかし、塾長はこう続けた。


塾長「でも、高専は国立高校になる。高校受験は、私立、国立、公立は別々の日程に行われるから、例え高専に落ちたとしても授業料の安い公立高校に行くことは可能だ。だから、受験してみたらどうだ?」

塾長は僕の家が裕福でないのを知っている。だから私立には行かせたくないという思いが強かったようだ。その点も考慮して、高専受験を後押ししてくれた。


こうして、僕の志望校は『工業高等専門学校』に決まった。

そして、高校受験のラストスパートの時期である冬休み、そして受験を迎えることとなった。


続く・・・

パート⑥受験合宿 長時間学習 家出 大出血 『波乱だらけの高校受験 本番』


by year_iapan_hcild | 2016-06-24 09:17
障害者 プログです

by year_iapan_hcild